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2020-03-06

枕元のりんご

枕元でシャリシャリとりんごの皮を剥く音が聞こえる。

そこに、静かに母の存在を感じた僕は、うっすらと目を開けた。

「あ、起きた?」

やわらかい笑顔が見えた。

そうだ。

母はもういないんだった…。

 

小学生の頃に、母を亡くした僕は、今、母と同じ病にかかって入院している。

枕元で微笑む女性は僕の彼女だ。

手には剥きかけのりんごと、小さな果物ナイフ、そして果物ナイフからはリンゴの皮が、まるで芸術作品のように美しく垂れ下がっていた。

窓辺から差し込む光が彼女を照らして、明るい影が窓の反対側に落とされ、まるでフェルメールの絵画のようだった。

りんごの皮を一度も切らずに剥くことができる人はそう多くない。母は、いつも完璧に美しくりんごの皮を剥いた。

僕にとってはそれが当たり前だったが、小学生の調理実習でリンゴの皮を剥いた時に母のすごさを思い知り、それから自分も躍起になって練習した。

いつか母のようにりんごの皮を剥けるようになり、母に褒めてもらいたい、そう思い練習した。

しかし、母のように美しくりんごの皮を剥くようになる前に、母は天国へ旅立ってしまった。

風邪を引くと、いつも枕元でりんごを剥いてくれた母。

台所で剥いたものを持ってくるのではなく、まるで「そばにいるよ。安心してお休み」と言っているかのように、枕元でシャリシャリとりんごの皮を剥いた。

その音はいつも僕を安心させて、僕は穏やかにまどろみながらりんごが差し出されるのを楽しみに待った。

母が病気になり、今度は僕が母の枕元でりんごを剥くようになったが、シャリシャリと心地よい音は出せなかった。母は危なっかしい僕の手元を心配そうに眺めていたが、決して止めることはせず、いびつなりんごを美味しそうに食べて笑ってくれた。

 

母が逝ってから、長い月日が流れ、今度は僕が母と同じ病気になり入院した。

彼女には母の病気の話はしていたので、僕の病名を告げられた時、自分でも驚くほど早くその現実を受け入れられたと話していた。

そんな彼女に、僕は母のりんごの話をしたことはなかった。

それなのに、何の偶然か、彼女が僕の枕元でりんごを剥いている。しかも、シャリシャリと一定のリズムで心地よい音を奏でながら。

僕は彼女のりんごを剥く姿に母の面影を見た。

彼女は僕に形の良いりんごの欠片を差し出した。

シャクシャクと小気味よい租借音を立てて、僕はりんごを味わった。

このまま時が止まれば良いのに。

 

僕は、天国の母に彼女を紹介できる日が近いことを知っていたが、紹介すべき彼女をこの世界に置いていかなければならないことも勿論知っていた。

ふいに涙が溢れて、慌てて飲み込むと、かすかにしょっぱい涙の味がりんごの甘さと混ざって、母が塩水にくぐらせて冷蔵庫にしまったりんごの味を思い出した。

彼女への感謝と幸せを願いながら、もうすぐ傍にいく母に、りんごの話をしようと目をつぶる。

 

 

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