夏の暑さを知らせる蝉の声。
家の中を夏風が抜けていく。
ふと目に入った本棚にはとても分厚く黒い本。
輝きを放つ銀の杯。
黒い本の名は『戦記』
本を開くと祖父の記述がある。
祖父は大正生まれ。七人の姉を持ち、一番下の長男として生まれた。北海道から戦地に趣き、敵の爆撃を受け、そのままシベリアで捕虜となったと記述がある。
極寒の中での重労働。飢え。極限のシベリア。そこで祖父はどう生き延びたのか。
幼い僕は捕虜の意味もわからず祖父に問いかける。
祖父はこちらを見ず、ゆっくりと窓の方を見上げながら語り出す。
「もうただただ寒くて寒くてな。いつ死んでもおかしくなかった。朝になると昨日まで話していた隣にいる戦友が死んでいた。そんな毎日だった…」
第二次世界大戦の終戦後、捕虜となった日本人は、ソ連軍によりシベリア等で長期間強制労働を強いられた。このことを『シベリア抑留』という。
シベリア抑留は、約五十七万人の日本人がソ連の捕虜としてシベリア地方に連行され、過酷な状況下で働かされた。
死者は約五万五千人とされている。これはあくまで正式な数ではなく、実際にはもっと多くの人が苦しみ、亡くなっているだろう。その中には抑留期間が約十年にも及んだ人もいたという。
終戦し、戦いが終わった後も日本に帰国できず、日々生きるための戦争を続けていた人が、こんなにも多く居た。
祖父が語るには、収容所での日々は地獄のように過酷なものだった。
一日中働かされるのにも関わらず、食事は固い黒パン一切れと、おかゆのようなスープだけ。過酷な労働の中、このような粗末な食事では足りるはずがなく、十分な食事を与えられず栄養失調に陥る者が続出。
シベリアの気温はマイナス三十度。素手で鉄に触れれば手の皮が冷え切った鉄にくっついて凍り、皮が剥がれ落ちる。鼻はよく揉んでいないと取れてしまう。
夜は極寒の中を薄手の毛布のみ。寒さに震えながら、仲間同士で固まって眠っていたという。寒い中での作業では、指や足が凍傷になる。すると麻酔無しで手足を切り落とされた。
休むことは許されず、当然死者が続出した。ガイコツのようにやせ細った亡骸を毎日のように埋めた。仲間が死んでも悲しむ暇などなく、『次は自分の順番』と思ってしまうだけだったという。
祖父はそれ以上深くは語らない。いやきっと語りたくなかったのだろう。思い出したくなかったのだろう。
きっとまだまだ言葉では表せない苦しみがあったに違いない。
戦争というものは狂気と殺戮。そして絶望に包まれる。
きっとその頃の祖父はその時みせた優しい笑顔もなかった。毎日が、いや毎分毎秒が過酷でしかなかったに違いない。
過酷な日々を過ごし、戦友を亡くし、感情を失くし、祖父が帰国したのは二年後。
その後に祖母と結婚し三人の子供に恵まれたという記述で文章は終わっていた。
この話は幼い僕の心にも突き刺さり、今も心の中にある。
そのとき話をしながら、祖父は僕の方を見てニッコリと笑うだけだった。
その笑顔には、深い深い心の傷があったに違いない。
祖父が深くは語らなかった戦争の話。
戦争がどういうものなのか教えてくれた。
その話には、多くの苦しみと哀しみが伝わる。
夏の風が吹く窓際で、その思いが心に吹き抜けた。