toggle
2019-11-23

愛の変化

人は愛し愛され幸せを感じる。

その愛は大きければ大きいほど憎しみにも変わる。

けれどもそれは憎しみのままでは残らなかった。

 

学生時代から彼女と付き合っていた僕は、お互いが十九歳を迎える時にそのまま結婚した。

二人の時は幸せに満ちた時だった。家族とも仲が良く、幸せな日々を過ごし、苦しみも一緒に乗り越えてきた。

結婚した当初は、結婚生活が明るく、楽しく過ぎていたが、裕福な生活が出来るわけではない。周りは年齢的に一番楽しい時だが、周りとは違い遊びに行くこともできない。そして子供も出来なかった。

こうして少しずつ小さなお互いの不満は募りに募っていた。一緒にいることに対し、「何が幸せか」が疑問になっていった。

ある日、その不満に限界がきて話し合いをした結果、「離婚しよう」という結論になった。今までそんなことは考えたことがなかったが、お互いの人生を歩むために、お互いがこのままじゃダメだと悟っていた。

その時から愛は憎しみに変わった。親同士もやはり自分の子が可愛いもの。その憎しみは家族にまで連鎖し、仲の良かったお互いの家族まで憎しみ合うように離婚した。

離婚というものは必ず円満にはいかない。それはお互いの別れに理由を持ち、恨みを持ち、周りをも巻き込んでしまうものだから。

僕自身も彼女と彼女の親に憎しみを募らせた。話もしたくないほど、顔も見たくないほど彼女と彼女の親を憎んだ。そうしてそのまま僕たちは離婚した。

母親は涙を流し僕に言った。

「私の育て方が悪かった。ごめんね」と。

その言葉が心の奥深くに刺さる。

僕は「そんなことは絶対ない。こちらこそごめん、不甲斐ない息子でごめん」と涙を流し謝った。

 

こうして離婚してから時は経ったが、彼女を幸せにできなかったこと、親を悲しませてしまったことを罪と感じ、僕はこの罪を心の中に抱えたまま過ごしていた。

そして十年後、祖母の死で彼女と僕は再び出会うことになる。

彼女から祖母が亡くなったのを知ったとメールがきたのだ。「葬儀には行けなかったが、後日お墓参りをさせてほしい」と。

十年前の僕なら断っていただろう。けれどもずっと罪を感じて生きてきた自分に答えが欲しいように彼女と会うことにした。

こうしてお墓の前で僕たちは十年振りに再会した。

「久しぶり」と声を掛け合う。お互いに不自然さや、わだかまりなどは感じない。懐かしさなども感じない。それは一度愛したお互いだからか、一緒にいた時と変わらない二人がいた。

その後、僕たちは帰り道で離婚のことについて話した。お互いに出た言葉は、「あの時はごめんね」という言葉。

あの時は若かったこと。どちらかが悪くて離婚をしたわけではないこと。今ならあの時のようにならなかったということ。後悔とは違うが、心からあの時の二人は間違っていたということをわかっていた。

そして彼女は結婚するということを教えてくれた。僕はうれしかった。ずっと、自分が幸せにできなかったことで、彼女の幸せを奪ってしまったと思っていたから。

僕は彼女が幸せになることを心から祝福し、「今度は必ず幸せになるんだよ」と伝えた。

彼女は「ありがとう。ごめんね」と涙を拭う。罪を感じていたのは僕だけではなかった。彼女も同じように自分の中で罪を感じていたのだろう。

彼女の結婚を機に、お互いの罪と感じていた自分は解けていった。

夕日が照らす中、歩幅の合う二人に愛とはまた違う温かいものを感じる。

お互いの愛は憎しみに変わり、そして思いやりに変わった。

 

 

関連記事