捨てられていた薪ストーブの鉄屑を見て思い出す。
パチパチと音を立てて燃える炎。
それは身体だけでなく、心にも温もりと共に残っている。
今はエアコン、石油ストーブ、パネルヒーターなどの暖房が当り前だが、昔は「薪ストーブ」というものがあった。
実際に見たこともない人も多いだろうが、これは薪を燃やして部屋を暖めるという原始的なストーブ。その作りは、扉の付いた箱型の鉄に煙突が取り付けられた形態。
幼い頃、薪をストーブに入れるのが楽しく、よく薪を入れさせてもらったが、僕が入れても火は安定しない。単純なようでなかなか難しいもので、これが祖父母が入れると火が安定する。
大なり小なりになる薪は、それぞれに意味がある。小さい薪は火を高めるため、大きい薪は火を安定させるためなど、その薪一つ一つにしっかり意味を持つ。祖父母の手は自然と火に合わせて一つ一つの薪を取っていく。
それは炎が人と呼応しているような不思議な感覚だった。火は色々な音と姿を見せ燃える。それを眺めているだけで見入ってしまう。
炎のゆらぎは癒し効果がある。川のせせらぎや海のさざ波、風が木を揺らす音など自然の中にある規則的なようでそうではない様々な自然現象に、人は無意識のうちに癒されると感じる。同じく薪が燃える炎もなんとなく惹かれて安らぐ。
現在、YouTubeなどでもキャンプ動画やアウトドアフィールド動画が人気だが、人は必然と自然の癒し効果を求める生きものなのかもしれない。
祖父母の家にあった薪ストーブは、その火で調理をし、部屋も暖めるという冬の寒さを乗り切るには欠かせないものだった。薪を入れる時の炎は、ゆらぎながら家族を照らすように燃える。
室内は温もりに満ち、薪ストーブの上ではお茶や煮物が炊かれている光景は、今思えば懐かしく、そして心もどこか温かくなる。
祖父は薪を用意する時によく言っていた。
「薪は生活の一部だ。どんな時も毎朝こうして薪を用意することが、生活に繋がる」
それは現在で言う、デザインを気にするようなものでもなく、ただ暖かくなるものでもなく、純粋に生きるためという深みを感じさせた言葉だった。
その言葉と共に見える祖父の手は大きく、そして人生を物語るような深い姿が鮮明に目に焼き付いている。
捨てられていた薪ストーブの鉄屑を見ながら、そんな祖父の姿を思い出していた。
祖父母が残してくれた燈火はしっかりと僕の胸に残る。