toggle
2019-09-12

天国への煙

朝、何十年も欠かすことなく茶がゆを作る後姿。

あの頃も、今も、いなくなるなんて考えても思ってもいなかった。

生きている中で、他の誰もくれない愛を唯一注いでくれた。

チラホラ雪が降る眩しい春の青空に、煙と共に天国へ消えていく。

後にも先にも僕の人生でただ一つ。

これはそんな愛の話。

 

一般家庭の次男として生まれた僕にはもう一人の母親がいた。それが祖母。

本当の母親がいない訳ではない、家族がバラバラなど仲が悪い訳でもない。それでも僕にとって祖母はもう一人の母親だった。

祖母は特別な家の出でもなく、昭和初期の終戦時代を逞しく生きてきた時代の人だ。六人兄弟の中、唯一の女の子だったらしい。だから名前は「ハツエ」

掃除や洗濯、料理など女性らしいことは得意ではなく、次に生まれる時は男がいいといつも言っていた。僕が小さい頃はコンクリートの土木作業員として働いていた。当時僕は三歳くらい。下の休憩所に迎えに行き、どら焼きをもらってよく食べていたのを覚えている。

祖母は決して綺麗でも上品ではなかったが、誰からも好かれる性格の中に、思いやりと優しさを持っていた人。

休憩室はいつも笑顔と笑い声で溢れていた。その中で僕をかわいいと自慢する祖母。今になってその光景と笑顔を見てみたいと思うのは滑稽だろうか。

 

少し大きくなり、幼稚園に通う僕。

家を出て、左の路地を見ると、朝焼けで光る路地に祖母が歩いてくる。その姿は思い返すと、神々しさを思わせるような綺麗な光景。

「ハツエさん!」僕は祖母を呼び走って抱きついていく。満面の笑みで僕を抱きしめ「おはよう」と抱きしめる祖母。

僕は祖母を名前で呼んでいた。それは祖父が「ハツエさん」と呼ぶ名残から。ハツエさんと呼ぶのが当たり前だった。

休みの日はそんな祖父母の家に行く。ハツエさんはよく家に泊まっていた。一週間の半分は泊まっていただろうか。そして週末に僕を連れ一緒に祖父母の家に帰るのが習慣だった。デパートに寄り、晩御飯によくステーキと、僕が食べたいもの、欲しいものをいっぱい買ってくれた。バスに乗り祖父母の家に帰り、祖父の帰りを待って夕食を食べる。

祖父は戦後の人にはめずらしく、柔らかな雰囲気で、家事全般を自ら進んでやる人だった。ハツエさんがよく家に泊まりに来ていたのも、そんな祖父の性格があってのもの。夕食を囲んで、買ってもらった本やおもちゃで遊び、お風呂に入ってハツエさんと寝る。それがあの頃、僕の中で何よりもうれしく幸せだった。

楽しみはもう一つ、祖父母の家で代々続いている「茶がゆ」という食べもの。生の米からお湯で炊き、番茶を注いでさらに煮立たせて作る。塩をかけて食べるシンプルな食べもの。作り方もとてもシンプルだが、不思議なもので、これが鍋やヤカンの調理器具の違い、長年作っていない人が作るものだと全然味が違う。

祖父母の家は、朝御飯に必ずこの茶がゆを食べる。僕は物心ついた時からこの茶がゆが大好きで、祖父母の家でしか食べることのできない、朝の楽しみでもあった。「おふくろの味」のようなものだろうか。料理がヘタで、嫌いなハツエさんの唯一の得意料理だったと思う。

ある日、ハツエさんの具合が悪いと連絡がきた。自分で病院には行ったが、即入院。幼心にパニックになり泣いた記憶がある。原因は心臓の血管が細くなり詰まっていたらしい。病院で危篤状態になった。なんとか一命は取り留め、手術もすることになり入院することになった。僕は毎日病院に通い、早く良くなってほしい、帰ってきてほしいと話をした。ハツエさんは「大丈夫、早く良くなるよ」と言って笑っていた。話をしていると、危篤状態の時、三途の川と光が見えたらしい。そして死にたくない!と強く思ったと話してくれた。

僕はとにかく良かったと思いながら、早く治って退院してほしいと思い、いっぱい絵や手紙を書いた。ハツエさんは心から喜んでくれて、絵や手紙を大切にしてくれた。手術は成功し、数ヶ月後ハツエさんは無事退院した。

退院後、運動もかねて山の上にあるゴルフ場のレストランにおいしい物を食べに行こうと二人で歩いて山に行った。最初はルンルンで歩いて行ったが思ったより距離があり遠い…。やっとのことでゴルフ場に着き二人でエビカレーを食べた。あの時に食べたカレーは今でもハッキリ覚えている。

それからもハツエさんと色々な所に出掛けた。麦わら帽子を被りやさしい笑みを浮かべ川で魚をとって遊ぶ僕を見るハツエさん。温泉に行く時の二人っきりの貸切バス。一緒に踊った盆踊り。お寿司を食べに手を繋いで歩いた道。

こうして僕はいっぱいの愛情を注がれ育ててもらった。

 

そして僕が十二歳くらいの頃、祖父もハツエさんも高齢ということもあり、同居することになった。新しい家で祖父と、そして大好きなハツエさんと暮らすことがとてもうれしかった。

運動会や部活も常に見に来てくれた。一緒に銭湯にも行った。お祭りも行った。色々なところに出掛けた。茶がゆも毎日作ってくれた。生きていれば幸せなことばかりではなく、苦しくて泣いた時も、いつもいつも傍にハツエさんがいた。

こうして時は経ち、祖父が亡くなった。祖父は認知症であり、ハツエさんや母が一生懸命面倒を見ていたが、もう家にいることが難しくなった為、施設を探している時だった。空いている施設がなく、困っていると祖父は自分が迷惑をかけないようにと言わんばかりに亡くなった。

祖父のお通夜が行われる前、死化粧をする時に「ご家族の方はご覧になられますか?」と聞かれた。皆は見ないでおくろうと言ったが、ハツエさんは何十年も過ごした人を本当は見て送りたいと思っている。僕はハツエさんに「一緒にいるから見ておくろう」と言って一緒に見て祖父をおくった。ハツエさんは涙ながらに頷いて言葉をかけながら僕の隣で祖父をおくっていた。

祖父が亡くなり、僕たちは新しい家に引っ越すことになった。新しい家にワクワクの家族だったが、ハツエさんは今まで住んだ家が名残惜しそうだった。

 

新しい家に引っ越した後のハツエさんはなんとなく元気を失っているように思えた。

引っ越してすぐに具合が悪くなり、僕が病院に連れて行ったら、入院し胆嚢を摘出する手術をした。その後も昔手術をした心臓の持病の関係もあり、病院に検診に行く際は僕ができるだけ連れて行っていた。

たびたび具合が悪くなることがあったが、いつも命に別状はなく入院という形も少なかった。けれどもその度にハツエさんは僕に「何度も命を救ってもらっている」と微笑みながら言っていた。

そうしてハツエさんは具合が悪い時や年齢のせいもあるが、道がわかららないため外に出ることが少なくなり、システムキッチンなどわからなく、家事もなかなかできなくなって自分のソファーに座っている時間が増えた。それでもふつうにいつも通りの日を過ごし、兄夫婦のひ孫と遊んだり、ご飯の時などは自分の席に座り今までと変わらぬ日常を過ごしていた。

 

そして三月二十三日、人生で最大の深い悲しみに落とされる日がきた。

 

早朝に具合が悪くなったハツエさん。僕が朝起きた時には、「大丈夫」と言っているが動くことが難しいということで救急車を呼んでいた。

寝起きの僕を横目に担架で運ばれるハツエさん。寝坊気味の朝でバタバタしていたのと、寝起きという状況の中、担架で運ばれるそのハツエさんの姿に、一言も声をかけられなかった。ふつうにあとで病院に行こうと考えていた。

けれどもこれが人生の最大の後悔になるなんて思ってもみなかった。本当に頭を過りもしなかった。

それほど重体でもないせいか、救急車は家の前で搬送先の病院の準備を長々としている。僕はまた入院になるだろうと思い、家族と話しながらいつも通り仕事に行く準備をしていた。父母がそのまま付き添いで病院に行き搬送されたハツエさん。

着替えが終わり、そろそろ出ようと思った時、家の電話がなった。母から「今すぐ病院に来て。ばぁちゃんが亡くなった」

僕はドラマのようにその電話を落とした。頭が真っ白になり、訳が分からず母になんでなのか怒った記憶がある。家にいた妹に伝えると妹は泣き出した。それでも僕は信じられなかった。そんなはずはない、ハツエさんが死ぬ訳がない。ハツエさんが僕に一言も言わず、逝くなんてそんなことある訳がない。

妹も病院に向かい、僕は病院に向かうことすらしなかった。認めたくなかった。何がなんでもハツエさんが死んだなんて認めたくなく、一人で何に対しての怒りなのか、悲しみなのか、そんなわからない感情でいた。

母から電話がなり、「病院に来て」と言われた。僕は「行かない!」と言い電話を切った。もう一度電話がなり、「来なくて本当にいいの?待ってるよ」と言われた。すると僕の目からとめどなく涙が流れた。車に乗り、涙が止まらず病院に向かう。もう悲しいのか、怒っているのかわからない。

病院に着く頃にも涙は止まらずだが、悲しみよりも怒りが込み上げてきた。どうしていきなりそんなことになる?どうしていきなり死ぬ?救急車や病院は何をしている?僕は涙を流しながら怒りに震えて病院に着いた。

母から「病院に着いた時は大丈夫とハツエさんと話していたらしいが、診察室に入りいきなり心筋梗塞を起こし重体になり助からなかったらしい」と説明された。いきなり容体が悪くなった?納得できない。きちんと治療はしたのか?こんなことがあって許されるのか?僕は先生を呼べと怒りに震えた。家族に止められ、このまま病院にいると救急隊員や先生をどうにかしてしまいそうで、認めたくない気持ちと怒りで先に家に帰った。

ハツエさんが家に帰ってきた。でも、返事もなく息もしていなく、目を瞑ったままのハツエさん。

「どうして?」「どうして置いて逝っちゃったの?」僕が話しかけても何も返事は返ってこない。涙がハツエさんの顔に落ちる。それでもハツエさんはピクリともしない。もう心ではこの現実を受け入れない自分がいるのに、ハツエさんが死んでしまった悲しみも抑えられない気持ちが溢れ出す。

そして布団を敷き、ろうそくを灯し、花も供え親戚も集まりだした。ずっと傍にいた。寝ることも忘れずっとずっとハツエさんの傍にいた。「どうして何も言わないで逝ってしまったの?」「苦しかった?」「大丈夫?」放心状態なのに、時折話しかける自分がいる。話しかけるたびに涙がハツエさんの顔に落ちる。涙が止まらなくなる。

葬式の準備をし、棺桶や写真を決める時に、誰よりも一番綺麗にしてあげたかった。

棺桶に入れる手紙を書こうと思い書き始める僕。「ごめんね。救急車で運ばれたあの日の朝、あの時声をかけられなく本当にごめんね。ごめんね。なんで僕に何も言わず逝ってしまったの?そんなのありえないよ。残された僕はどうすればいいの?ハツエさんがいない世の中なんていらないから、どうして一緒に連れて行ってくれなかったの?」

手紙に書いた内容は「安らかに眠ってね」「今までありがとう」などはない。それほど僕は、ハツエさんがいない世界に興味はなく、本当に一緒に連れて行ってほしかった。ハツエさんが聞いていたら怒る内容だが、本当にそれしか思わなかったんだ。

お通夜の日、僕はまだ現実を受け入れない自分と悲しみで泣いている。ずっと棺桶の傍で涙を流すことしかできない。時間がきて参列者が集まりだした。僕の友達も来てくれた。昔から僕がどれほどハツエさんを愛しているかを知っている友達。立派な花を添え、わざわざみんな帰ってきてまで来てくれた。友達の近くにいき「逝っちゃった」と崩れ落ちた。友達は何も言わなかった。ただただ泣いて崩れ落ちる僕を抱きしめ支えてくれていた。

お通夜の最中もずっと泣いていた僕。みんながご飯を食べて、お酒を飲んでいるが片時もハツエさんの傍から離れない。

 

次の日、葬式が行われ、火葬場に着き最後の別れを皆している。僕は傍にはいたが一言もしゃべりかけることができなかった。焼いてほしくなかった。最後の最後まで抵抗するように黙って火葬を見つめる。皆はご飯を食べに別室にいるが、僕はその場を離れることができなかった。

それでも他の人の火葬の関係もあるので、その場から離れ外に出た。チラホラ雪が降る眩しい春の青空に、煙と共にハツエさんは天国へ向かっている。煙突から出る煙をいつまでも見つめ、それはどこか晴れやかに、綺麗に天へ昇って行ったが、僕はそう感じながらもまた涙を流した。

ハツエさんが骨になり、写真と一緒に家に帰る。ハツエさんの姿はもう写真でしかない。初七日を迎え、お墓に入れ、ハツエさんの姿は完全に写真でしか見られなくなってしまった。

それから何日もお墓に通った。お墓の前で暗くなっても隣でハツエさんといる自分が繰り返される日々が続く。僕が話しかけるのは「ごめんね」と「どうして僕を置いて逝ってしまったの?」ばかり。お墓の前でこの日々を繰り返す。そして現在もこの思いは募る。

 

あの時に声をかけなかった後悔。今はもう絶対に叶わない、ありがとうと言えなかった自分。後悔ばかりが募り、今でも涙がでる。こんな僕を見て、ハツエさんは「そんなことないよ。幸せだったよ」と言うに決まっているが、僕は僕自身をいつまでも許せないでいる。

そんな思いからか、ハツエさんの夢を見た。夢の中でハツエさんが帰ってきた。僕は涙を流しながらハツエさんに抱き着く。「生き返ったんだね!」「よかった。本当によかった」「ごめんね、ごめんね」と僕は話しかけるが、ハツエさんはずっと笑顔を浮かべながら僕を抱きしめるだけ。目が覚め、夢と気づきまた涙を流した。けれどもハツエさんは言いたかったんだ。「何もあやまることはない。後悔することはない。愛してる」と。

ハツエさん。唯一の愛を注いでくれた僕の祖母であり、もう一人の母親である最愛の人。今でも僕はこの思いと祖母といる。けれども今それは、唯一の愛と唯一の悲しみに変化した。愛と悲しみは一生消えることなく僕の中にあり続ける。

そしてハツエさんを失った悲しみと共に、死んだなどは受け入れられないもう一人の自分がいる。

大切な大切な唯一の愛を失った僕は、これから先いつまで彷徨うのだろうか。

 

 

関連記事